あなたは欲しいモノをどうやって手に入れるでしょうか。
お金で欲しいモノを買います。
お金はどうやって手に入れるでしょうか。
当たり前ですが、働いて手に入れます。

人が生きるには、お金が不可欠になりました。いわゆる「交換」です。

近代、お金は金本位制でなくなり、紙幣となって大量発行、流動化し、本来は価値の無い紙幣自体に価値があるようになり、お金のあるところにはさらにお金が集まり、お金の無いところはさらにお金が無くなる事態が起こっています。
現在では、世界全体の最富裕層上位1%が、世界総資産の半分を保有しているそうです。

お金が爆発的に増加し始めたのは、近代、17世紀ごろからと考えられます。経済学でいう古典派(アダムスミス)の時代です。

17世紀ごろまで人は、共同体の中で、その土地に属して暮らしていました。しかしこの時、ついに人は「欲求(私利)を肯定」します。共同体から個人が自立し、個人が土地を開墾し囲い込みます。
地主が生まれ、囲い込んだ土地からたくさんの余剰な作物が生まれます。余剰分は市場に出され、お金に交換し、お金持ちになる。余ったお金で、ぜいたく品を買う。このように、アリストテレスの時代では例外的であった「市場」が主となっていきます。

ここから、市場はどんどん大きくなり、それに伴ってお金はあふれていきます。
17世紀:欲求(私利)が芽生え、共同体から個人は自立した。
18世紀:農業革命で、自然の土地をお金に交換した。
19世紀:産業革命(軽工業)で、人の労働をお金に交換した。
20世紀:産業革命(重工業)で、人の労働の分業と効率化の追求。
21世紀:情報革命で、人の知識をお金に交換した。
経済学もお金と共に変わっていきます。現在の「経済成長」という意味は、より沢山のお金を得る。という意味で考えても大間違いではないでしょう。

このように、人は個人の欲求(私利)を認めたことを原点に、「土地」「労働」「知識」をお金に交換し、ありとあらゆるものがお金で交換できる時代になりました。
さらに、昨今の情報革命により、お金は電子化され、仮想のお金が交換され、世界中を流動しています。

共同体同士で、単なる価値交換の手段だったお金が、現在では、情報革命によるグローバル化、迅速化、正確性によって、誰でも、どこにでも、お金を投入し、労働と土地と知識を市場に投入して、利得を得て、その利得を再び投入する、すなわちお金でお金を増やすことが簡単に出来てしまう時代になりました。

お金がたくさんあればモノが豊かになります。モノが豊かになれば、かつてはしあわせを感じました。

戦後の日本は、アメリカ式で急速に経済成長しました。大量生産大量消費でモノの無い時代からモノがあふれる時代に。生活必需品に満たされれば、「ぜいたく品」が欲しくなる。

「ぜいたく品」は、所得の増加がすなわち全ての人の暮らしが良くなるシンボルでした。そして、「ぜいたく品」は、誰もが憧れ、欲しがる商品になった。かつて、富は誇示できるものでした。

経済成長(お金を増やす)はいいことだ。
効率化(モノを増やす)はいいことだ。

モノとお金があふれた現在、今からの「よい生活」すなわち「しあわせ」は、少し違った視点で考える必要があるのではないかと思います。

「市場」が例外的であった時代のアリストテレスはこういっています(アリストテレスによる経済の発見)。

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「共同体」「自給自足」「公正」が中心の社会
「共同体」
共同体の成員は善意(フィリア)の絆によって結ばれている。
家にも都市にもそれぞれの共同体に特有の善意があり、それを離れては集団は存続できない。
善意は互酬行動、つまりお互いに交代ですすんで負担を引き受けたり、共有したりすることによって表現される。
共同体を存続させ、維持するのに必要なことは、その自給自足を含めて、それがなんであれ「自然」なことであり、本来的に正しいことである。
「自給自足」
自給自足とは、外部からの資源に依存することなく生存する能力といってよい。
「公正」
公正には、共同体の成員が不平等な地位をもつという意味が含まれている。人生の目的の配分に関するものであれ、紛争の解決に関するものであれ、サービスの交換の調整に関するものであれ、公正を保証するものは、集団の存続に必要であるから、よいものである。
「交易(交換)」
外界との交易が自然なものになるのは、それが共同体の自給自足を支えることによって、共同体の存続に役立つ時である。
拡大家族が人口過剰となり、その成員が分散して住まなければならないようになるや否や、このことが必要になってくる。
今や、自分の余剰から一部を与える行為が無ければ、成員の自給自足は全面的に崩れることになるのである。
分け与えられるサービス(財)が交換される比率は善意の要請、すなわち成員間の善意によって支配される。なぜなら、善意がなくなれば共同体自体が停止する。
したがって、公正な価格は善意の要請から生じるのであり、あらゆる人間共同体の本質である互酬性に表現されるのである。
交易は自給自足がそれを要請するかぎりにおいて「自然」なのである。価格は、共同体の成員の地位に一致して定められれば、公正に定まり、またそうすれば、共同体の基盤である善意を強化する。
財の交換もサービスの交換に他ならない。それは自給自足に規定された財の交換であり、公正な価格によって、お互いに分有する形をとって実施される財の交換である。このような交換には利得は含まれない。財にはあらかじめ設定された周知の価格があり、例外的に利得を含んだ小売りがあるとしても、それは市場での財の分配の便宜を考慮してのことであって、市民以外の者によってなされる。

出展:経済の文明史 (ちくま学芸文庫) 文庫 – カール ポランニー (著), Karl Polanyi (原著), 玉野井 芳郎 (翻訳) 筑摩書房 (2003/6/1)
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近代で人の欲求(私利)の芽生えを垣間見たアダムスミスは、こういっています。

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交換とは、同感、説得性向、交換性向、そして自愛心という人間の能力や性質にもとづいて行われる互恵的行為である。そして、市場とは、多数の人が参加して世話の交換を行う場である。
したがって、市場は本来、互恵の場であって、競争の場ではない。しかし、「財産への道」を歩む人々が市場に参加することによって、競争が発生する。つまり、他人からの世話を出来るだけ多く獲得し、蓄積しようとする。より多くの報酬を得ようとより質の高い、より安く、より多く提供する。
競争を通じて質の悪い、高い世話は排除される。競争は互恵の質を高め、量を増す。
この市場はフェアプレイの精神によって支配される市場でなくてはならない。フェアな市場があり、世話の質を高め、よい評判を獲得すれば、正当な報酬が得られるという見込みがあってはじめて分業が可能となる。このような見込みの下で、社会的な分業が進歩する。そして分業が確立すれば、他人の労働の生産物によって自分の生活を支えていくことが出来る。これが「商業社会」である。
それは、愛情や慈恵によって支えられた社会ではない。自愛心によって支えられた社会である。

幸福は平静と享楽にある。
平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。心の平静は「最低水準の富を得て、健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」こと。

「賢人」
最低水準の富があればそれ以上の富の増加は、自分の幸福に何の影響ももたらさない。

「弱い人」
貧欲は、貧困と富裕の違いを、
野心は、私的な地位と公的な地位の違いを、
虚栄は、無名と広範な名声の違いを

この経済を成長させるのは「弱い人」、あるいは私たちの中にある「弱さ」である。

出展:アダムスミス 道徳感情論と国富論の世界 堂目卓生 中央公論新社 (2008/3/1)
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そして、『労働、土地、貨幣はいずれも販売のために生産されるのではなく、これらを商品視するのは全くのフィクションなのである。』と言った、ハンガリー生まれの経済学者カール・ポランニー(1886-1964)は、実在経済の統合形態を見出しています。

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実在の経済の統合形態は、経験的に言って、主要なパターンが互酬と再配分と交換の組み合わせによって達成されることを見出す。

互酬は対称的な集団間の相対する点の間の移動を指す。対称的に配置された集団構成が背後にあることを前提

再配分は、中央に向かい、そしてまたそこから出る占有の移動を表す。何らかの程度の中心性が集団の中に存在することに依存する。

交換は、市場システムのもとでの「手」の間に発生する可逆的な移動の事をいう。価格決定市場というシステムを必要とする。
実在の経済の一つの統合形態としての互酬性は、再分配と交換の両方を副次的な方法として用いる能力によって、大幅にその力を増す。

互酬性は、再分配の一定の原則によって労働負担の分有が行われることによっても達成される。例えば、「交互に」ものごとを引き受けるような場合である。
同様に、たまたまある主の必需品が不足している相手のために設定レートで行う等価物の交換によって達成される時もある。

出展:経済の文明史 (ちくま学芸文庫) 文庫 – カール ポランニー (著), Karl Polanyi (原著), 玉野井 芳郎 (翻訳) 筑摩書房 (2003/6/1)
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少し前、最も幸せな国はどこ?といった流行りが端を発し、日本でも内閣府において2011年に幸福度指標というものが試案されています。
そこで、持続可能なしあわせ(主観的幸福感)とは
・経済社会状況
・心身の健康
・関係性(つながり)
の3つが基軸になるとあります。

また、人種や文化によってもしあわせの考え方が違うのは当たり前で、例えば、アメリカと日本では、幸福像が全くちがいます。

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日本「バランス志向的幸福像」
ポジ・ネガティブの感情のバランス:良いこともあれば悪いことも隣り合わせになる。
関係性のバランス:自分だけが飛び抜けて幸福であったり,あるいは不幸であったりすることは好まれない。「人並み感覚」が大切

アメリカ「増大的幸福像」
幸福は自分の能力や環境要因などを可能な限り最大化した状態で得られるもの
若く健康で、高い教育を受け、収入が高く、人付き合いがうまく、良い仕事をもち、自尊心の高い人
「生まれてから死ぬまでずっと幸福を増大させ続ける」

出展:特集 幸福感次のステージ「日本人の幸福感と幸福度指標」内田由紀子
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幸福像が全く違う国の経済的文化を取り入れることで、その国はしあわせになるのか。。

これらを踏まえ、しあわせのイノベーションの基本となる3つの破壊を考えています。

1)お金の破壊(経済社会状況)
お金でお金を増やすのは、何かおかしい。本来、お金に価値はないはず。
ただし、自分に無い価値を他人と交換することは必要。
定性的価値をどのように表し、交換できるようにするのか。互酬、再配分とのバランス。

2)時間価値の破壊(心身の健康)
人は労働をお金に交換した。
その労働価値は、労働時間と比例すると考えることが自然になってしまった。多くの時間を働いた方がたくさんお金がもらえる。この考え方は根強い。
人生半分仕事でしあわせか。人生暇なのがしあわせか。

3)産業構造の破壊(関係性)
産業分業の破壊
 農業革命:第一次産業
 産業革命:第二次産業
 情報革命:第三次産業
近代からの革命により、効率化による分業が進み、物質的価値が増大する。

個人分業の破壊
各産業内に無数のカイシャを作り、カイシャ内で個人分業がなされる。そして、カイシャ内で情報交換がなされる。この無駄。
ただ、特に日本では、カイシャが人のつながりの多くを担っている。関係性や心身の健康の一端を担っている。

そして、これら3つの破壊が実現可能な考え方の一つとして、
アリストテレスが言う善意(フィリア)の絆によって結ばれた自給自足する共同体であり、
かつ、カール・ポランニーが言う互酬と再配分と交換の組み合わせによる実在経済を実現している共同体
であると考えられます。

参考図書:経済成長主義への訣別 (新潮選書) 2017/5/26 佐伯 啓思 (著) 新潮社 P381