語りたいことが「自分事」であるということ。

自分が「当事者」で、自分が語りたいことの根源とは何か?を考え続けている。
「自分事」「当事者」であれば、『もし・たとえば』という言葉は出ない。

『もし・たとえば』を使うということは、今ここで自分が語っていることが、どこからか引っ張ってきた引用やウケウリである。

引用やウケウリを自身の思考に取り入れ、すり合わせ、新しい考え方を創造することは、悪いことではなくいい事である。

しかし、その創造した事柄が、「今ここ」に当てはまるのかを考え抜いたか/考えていないかで、『もし・たとえば』を使う/使わないの差が出てくる気がする。

(たとえば(笑))、ものづくり世界だと、「クルマなら・・・」と語る人がいる。「たとえばクルマなら」「もしクルマなら」と、『もし・たとえば』を使わざるを得ない。そのクルマからの引用やウケウリと、「今ここ」の「当事者」である自分の知識、経験、想いにすり合わせながら当てはめ、「自分事」にする過程が抜けているのである。

「もし私なら」「たとえば私なら」ということがある。これも「自分事」にする過程の途中。自分が「当事者」になりきれていない。相手と共感し、体験を共有し、相手に入り込めていない状態であると考えられる。

「あなたならどうする」ではなく、「わたしはこうする」

『もし・たとえば』を使わず語る人は、日々、自分が語りたいことに対して、いろいろな、経験、知識を呼び出し、さまざまな情報とすり合わせ、夢の中でも考え、時間を凝縮し、次元を超えて考え抜き、自分の思考として再構築する訓練、練習、妄想を日々繰り返している人だろうと思う。

何かを実行するとき、中途半端は後悔することが分かっている人。だから、『もし・たとえば』はあり得ない。

『もし・たとえば』で他人は共感しない。自分事でなければ。