イノベーションは技術革新ではありません。

平成17年の中央教育審議会答申(「我が国の高等教育の将来像」)が指摘するとおり、21世紀は、『「知識基盤社会(knowledge-based society)」の時代である。』と言われています。
また、20年ほど前のドラッガー「ポスト資本主義社会」では、
『「基礎的な経済資源」は、もはや資本でも天然資源でも労働力でもなく「知識」であり、「知識労働者」が中心的役割を果たす。』
と言われています。

このように、「知識」が注目される理由とは何なのでしょうか。

資本主義の下、人間の基本的欲求は、「資本」「労働」「技術」「資源」によって満たされてきました。
この人間の基本的欲求をマズローの欲求5段階説で現わすと、以下の通り、低次からより高次に欲求を並べる階層となり、低次の欲求が充たされると、より高次の階層の欲求を求めるとされます。
<低次>
↓1.生理的欲求
↓2.安全の欲求
↓3.所属と愛の欲求
↓4.承認の欲求
↓5.自己実現の欲求
<高次>
この半世紀で、平和が続く地域では、人々全体で欲求がより高次に移り変わっています。そして、自己実現の欲求を求める人が増加しているはずです。
マズローの言葉を借りると『自己実現とは才能、能力、可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を充分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる』
このような自己実現を行うには、「知識」が必要なのです。これが私の仮説です。

それでは、「知識」とは何なのでしょうか。

・個人の「信念」が、人間によって「真実」へと正当化される直接的過程です。
・個人が「信念」を持つには、様々な「情報」と深い考察による「仮説」が必要です。
・そして、仮説を立証するには実践(使用)が必須です。毛沢東「実践論」でも以下のように言われています。
『知識を欲するなら、現実を変化させる実践を行わねばならない。実践、知識、さらなる実践、さらなる知識、この型の循環的反復を無限に行え。』

ここで1つの疑問が湧きます。「知識」と「技術」は違うのか?

かつて日本は技術立国と呼ばれました。高度経済成長を経て、バブルがはじけ、失われた10年、20年と呼ばれ、今に至ります。日本人にとって技術とはなんでしょうか。そして、かつての造語である「科学技術」とは何なのでしょうか?

「技術」とは?

技術には2種類あります。
1つ目は、いわゆる伝統。人類の誕生とともに、親方・徒弟間の伝承制度で同業者間のみで蓄積された職人的技術。
2つ目は、近代技術。西洋文化が基で、生活者は原則的に自由であり、自分の望むことを実現できる権利を有する。自らの欲するところを無限に追及するという近代社会形成のなかで、技術は強力な手段となり、無限に進歩し拡大するもの。
そして、技術とは、目的が同じでもいろいろなやり方があり、「唯一の正解」が無い。技術は有用を追及する。

「科学」とは?

ものごとの本質を究めようとする知的な営み。原因を追及して「唯一の正解」を求める。つまり、科学は新たな目的が達成された結果から真実を究める。

このように、技術には「目的」があり、科学には「結果」がそこにあるのです。技術は目的ありき。科学は結果ありき。
知識は個人の「信念」によって目的を生み出す。ここが違いです。

目的ありきとはどういうことか。
高度経済成長の中で、日本人は何を作ってきたでしょうか。よく考えると、すでにあるものを安く作る、品質を上げる、小さくするなどではないでしょうか。すなわち目的があったのです。

ですから、「技術革新(≠イノベーション)」ではだめなのです。技術革新は、目的ありきですから。

イノベーションは知識が創造された結果によって起こる。

と考えるべきでしょう。

「目的ありき」という着目点で今までのものづくりを見ると、本当に知識が創造され、イノベーションにつながった事例を抽出できます。そして、そこから学ぶべきです。

近代技術によって、低次の欲求は満たされました。人間の「真実」につながる新たな目的を創造する。すなわち知識の創造が求められています。

<参考書籍>
・野中郁次郎 竹内弘高 梅本勝博 (翻訳)(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社 401P
・野中郁次郎 紺野登(2003)『知識創造の方法論―ナレッジワーカーの作法』 東洋経済新報社 292P
・丹羽清(2006)『技術経営論』東京大学出版会 363P