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インクルーシブデザイン

これからは社会課題を解決していく時代

大量生産型の中で生き、働いていく中で、どちらかというと企業の中で後回しにされる傾向があった社会課題の解決手法とその実践を行ってきた先生方の授業は、その内容もさることながら生き方について、考えさせられ、また今後の自分のあり方について、大切なヒントをいただきました。

私は、昭和生まれ、段階の世代ジュニアとして育ち、高専を卒業した就職時は、バブルがはじけた経済状況であったものの、依然として大量生産、効率化が良いことであるという社会通念の中で社会人生活を生きることになります。
そのしっぺ返しとして、長らくのデフレ、不景気、何となく経済が上昇しない気風、それにつられて人々の幸せもなんとなく幸せでないような。そんな雰囲気を味わってきました。

20代はエクストリームユーザーには気にも留めていません。つまり、インクルーシブデザインなど知りません。それは、時代背景を考えると当たり前の事で、大量生産型の考え方だからです。
転職し、子供が生まれ、仕事と家庭を両立させないといけない状況になっていくに従い、自分の幸せに対する考え方、自分のあり方、時間のあり方に疑問を持ち始めます。自分の存在意義を考えた時に何をすることが自分にとって最適なのか。だんだんとそれが分からなくなっています。ただがむしゃらに自分が自由にできる環境を作る。そこに没頭しているような状態です。とても変化に富み、刺激があって良いのですが、ゴールはまだ見えません。

失われた20年30年と言われながら、今大きくなった平成生まれの学生たちに、大量生産、効率化の考え方は根付かなかったようです。それは文化として、たくさん作っても意味がない社会環境、大量生産型の大企業がどんどんつぶれる。海外のイノベーティブなIT企業が台頭する。
そして、私自身も変わらなければならない時期に来ています。

インクルーシブデザインを知ることで自分の中の何が変わっていくのか。なかなか従来の考え方を変えることが難しくなっている中で、先進的な考え方の学生と、それを乗り越えてこられた先生方の話を聞き、少し変わるきっかけをつかめた気がしています。

このインクルーシブデザインの授業では、アイマスクによって目の不自由な人を疑似体験し、車椅子に乗って足の不自由な人を疑似体験し、体験をすることによって、脳を使って、それを記憶する。このサイクルを回すことが、多様性理解の第一歩。何事も体験であると。

特に、視覚を外すということの不安感は何とも言えない体験でした。
人が情報を取得するための方法の約8割が視覚と言われています。また、『目は口ほどにものを言う』というようにコミュニケーション手段の一つでもあります。
普段、私は知らず知らずのうちに、年をとって無駄に経験を積んでしまったせいで、実体験もせず、何かと頭で想像して片付けてしまっています。「これは、こういうことでしょ?」という風に。人は経験と知識がある程度備わってくると、ある知識とある経験をくっつけて新しい疑似経験を作る癖があります。それが創造につながるわけで悪い能力ではないのですが、知識と経験を積むということは永遠であり、知識と経験が充分ということもあり得ない中で、自分ではそうならないようにしているつもりでも、やはり、そうなっていますね。視覚を外してよく分かります。

実際にアイマスクによって視覚を外すと、体が動き、脳が考えます。脳の中の顕著な変化を感じることが出来ました。頭の中に3次元の空間を描こうとしていました。そして、頭に3次元空間を描くことが出来ると少し不安感が和らぎます。目が見えても見えなくても人の脳は3次元空間をベースとして行動を制御していることがよく分かります。
先生のおっしゃる通り、実際に目で見た経験がある人は、その今まで見ていた映像を使って3次元空間を描こうとします。では、元々全盲の人はどのような3次元空間を描くのでしょうか。非常に興味がわくポイントです。

先生のお話で印象に残ったのは、「出来ないことを出来ないと思わず、何か工夫する、方法を考えることによって出来るようになる。」ということです。これは、インクルーシブデザインの本質の一つではないかと思います。

出来ない(分からない)というのは簡単で、周りが出来ないと思い込むことは、相手の向上心を奪うことになる。あらためて感じます。これは、目が見えない方だけでなく、子供や老人、性別、人種など、多様な人の理解に共通して言えることではないかと思います。
そして、コミュニケーションの大切さ。先生は目が見えない代わりによくしゃべります。コミュニケーションを言葉一つで行うためです。目の情報を音声でカバーするためにしゃべる。ただ、それだけではないと感じます。

先日、新幹線乗り場で全盲の方がホームで困っているようでした。私はしばらくその人を見ていました。ただ、本当に困っていそうだったので、「お手伝いしましょうか?」思い切って声をかけてみました。「はい。自由席はどこでしょうか?」明るく臆することもなく、その方は何が困っているのかを端的に明確に私に伝えました。
言葉によるコミュニケーションのウエイトが大きければ大きいほど、端的に明確に伝えなければ伝わらないということを感じたことが印象的です。私のように、もじもじしていてはいけませんね。

目が見える場合、ある程度、目に頼るので言葉が不明瞭になることもあります。これがあれしてそれして(目でものを言っている)・・・みたいに。
ガイドは的確に何を言えば目の見えない方に正確な情報を与え、3次元空間を描いてもらえるのか。私も今回のWSで体験させてもらいましたが、うまく言葉が出てきません。訓練が必要です。

体験は経験になりますが、古い経験は美化されたり陳腐化したり、形が変わったりします。
それを考える時に、したいときに、その時に感じてみる。この感覚はすごく大事であると改めて感じました。より多面的に本質を考え抜く。
インクルーシブデザインの本質に迫っていきたいと思います。


しあわせのイノベーション

あなたは欲しいモノをどうやって手に入れるでしょうか。
お金で欲しいモノを買います。
お金はどうやって手に入れるでしょうか。
当たり前ですが、働いて手に入れます。

人が生きるには、お金が不可欠になりました。いわゆる「交換」です。

近代、お金は金本位制でなくなり、紙幣となって大量発行、流動化し、本来は価値の無い紙幣自体に価値があるようになり、お金のあるところにはさらにお金が集まり、お金の無いところはさらにお金が無くなる事態が起こっています。
現在では、世界全体の最富裕層上位1%が、世界総資産の半分を保有しているそうです。

お金が爆発的に増加し始めたのは、近代、17世紀ごろからと考えられます。経済学でいう古典派(アダムスミス)の時代です。

17世紀ごろまで人は、共同体の中で、その土地に属して暮らしていました。しかしこの時、ついに人は「欲求(私利)を肯定」します。共同体から個人が自立し、個人が土地を開墾し囲い込みます。
地主が生まれ、囲い込んだ土地からたくさんの余剰な作物が生まれます。余剰分は市場に出され、お金に交換し、お金持ちになる。余ったお金で、ぜいたく品を買う。このように、アリストテレスの時代では例外的であった「市場」が主となっていきます。

ここから、市場はどんどん大きくなり、それに伴ってお金はあふれていきます。
17世紀:欲求(私利)が芽生え、共同体から個人は自立した。
18世紀:農業革命で、自然の土地をお金に交換した。
19世紀:産業革命(軽工業)で、人の労働をお金に交換した。
20世紀:産業革命(重工業)で、人の労働の分業と効率化の追求。
21世紀:情報革命で、人の知識をお金に交換した。
経済学もお金と共に変わっていきます。現在の「経済成長」という意味は、より沢山のお金を得る。という意味で考えても大間違いではないでしょう。

このように、人は個人の欲求(私利)を認めたことを原点に、「土地」「労働」「知識」をお金に交換し、ありとあらゆるものがお金で交換できる時代になりました。
さらに、昨今の情報革命により、お金は電子化され、仮想のお金が交換され、世界中を流動しています。

共同体同士で、単なる価値交換の手段だったお金が、現在では、情報革命によるグローバル化、迅速化、正確性によって、誰でも、どこにでも、お金を投入し、労働と土地と知識を市場に投入して、利得を得て、その利得を再び投入する、すなわちお金でお金を増やすことが簡単に出来てしまう時代になりました。

お金がたくさんあればモノが豊かになります。モノが豊かになれば、かつてはしあわせを感じました。

戦後の日本は、アメリカ式で急速に経済成長しました。大量生産大量消費でモノの無い時代からモノがあふれる時代に。生活必需品に満たされれば、「ぜいたく品」が欲しくなる。

「ぜいたく品」は、所得の増加がすなわち全ての人の暮らしが良くなるシンボルでした。そして、「ぜいたく品」は、誰もが憧れ、欲しがる商品になった。かつて、富は誇示できるものでした。

経済成長(お金を増やす)はいいことだ。
効率化(モノを増やす)はいいことだ。

モノとお金があふれた現在、今からの「よい生活」すなわち「しあわせ」は、少し違った視点で考える必要があるのではないかと思います。

「市場」が例外的であった時代のアリストテレスはこういっています(アリストテレスによる経済の発見)。

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「共同体」「自給自足」「公正」が中心の社会
「共同体」
共同体の成員は善意(フィリア)の絆によって結ばれている。
家にも都市にもそれぞれの共同体に特有の善意があり、それを離れては集団は存続できない。
善意は互酬行動、つまりお互いに交代ですすんで負担を引き受けたり、共有したりすることによって表現される。
共同体を存続させ、維持するのに必要なことは、その自給自足を含めて、それがなんであれ「自然」なことであり、本来的に正しいことである。
「自給自足」
自給自足とは、外部からの資源に依存することなく生存する能力といってよい。
「公正」
公正には、共同体の成員が不平等な地位をもつという意味が含まれている。人生の目的の配分に関するものであれ、紛争の解決に関するものであれ、サービスの交換の調整に関するものであれ、公正を保証するものは、集団の存続に必要であるから、よいものである。
「交易(交換)」
外界との交易が自然なものになるのは、それが共同体の自給自足を支えることによって、共同体の存続に役立つ時である。
拡大家族が人口過剰となり、その成員が分散して住まなければならないようになるや否や、このことが必要になってくる。
今や、自分の余剰から一部を与える行為が無ければ、成員の自給自足は全面的に崩れることになるのである。
分け与えられるサービス(財)が交換される比率は善意の要請、すなわち成員間の善意によって支配される。なぜなら、善意がなくなれば共同体自体が停止する。
したがって、公正な価格は善意の要請から生じるのであり、あらゆる人間共同体の本質である互酬性に表現されるのである。
交易は自給自足がそれを要請するかぎりにおいて「自然」なのである。価格は、共同体の成員の地位に一致して定められれば、公正に定まり、またそうすれば、共同体の基盤である善意を強化する。
財の交換もサービスの交換に他ならない。それは自給自足に規定された財の交換であり、公正な価格によって、お互いに分有する形をとって実施される財の交換である。このような交換には利得は含まれない。財にはあらかじめ設定された周知の価格があり、例外的に利得を含んだ小売りがあるとしても、それは市場での財の分配の便宜を考慮してのことであって、市民以外の者によってなされる。

出展:経済の文明史 (ちくま学芸文庫) 文庫 – カール ポランニー (著), Karl Polanyi (原著), 玉野井 芳郎 (翻訳) 筑摩書房 (2003/6/1)
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近代で人の欲求(私利)の芽生えを垣間見たアダムスミスは、こういっています。

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交換とは、同感、説得性向、交換性向、そして自愛心という人間の能力や性質にもとづいて行われる互恵的行為である。そして、市場とは、多数の人が参加して世話の交換を行う場である。
したがって、市場は本来、互恵の場であって、競争の場ではない。しかし、「財産への道」を歩む人々が市場に参加することによって、競争が発生する。つまり、他人からの世話を出来るだけ多く獲得し、蓄積しようとする。より多くの報酬を得ようとより質の高い、より安く、より多く提供する。
競争を通じて質の悪い、高い世話は排除される。競争は互恵の質を高め、量を増す。
この市場はフェアプレイの精神によって支配される市場でなくてはならない。フェアな市場があり、世話の質を高め、よい評判を獲得すれば、正当な報酬が得られるという見込みがあってはじめて分業が可能となる。このような見込みの下で、社会的な分業が進歩する。そして分業が確立すれば、他人の労働の生産物によって自分の生活を支えていくことが出来る。これが「商業社会」である。
それは、愛情や慈恵によって支えられた社会ではない。自愛心によって支えられた社会である。

幸福は平静と享楽にある。
平静なしには享楽はありえないし、完全な平静があるところでは、どんなものごとでも、ほとんどの場合、それを楽しむことができる。心の平静は「最低水準の富を得て、健康で、負債がなく、良心にやましいところがない」こと。

「賢人」
最低水準の富があればそれ以上の富の増加は、自分の幸福に何の影響ももたらさない。

「弱い人」
貧欲は、貧困と富裕の違いを、
野心は、私的な地位と公的な地位の違いを、
虚栄は、無名と広範な名声の違いを

この経済を成長させるのは「弱い人」、あるいは私たちの中にある「弱さ」である。

出展:アダムスミス 道徳感情論と国富論の世界 堂目卓生 中央公論新社 (2008/3/1)
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そして、『労働、土地、貨幣はいずれも販売のために生産されるのではなく、これらを商品視するのは全くのフィクションなのである。』と言った、ハンガリー生まれの経済学者カール・ポランニー(1886-1964)は、実在経済の統合形態を見出しています。

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実在の経済の統合形態は、経験的に言って、主要なパターンが互酬と再配分と交換の組み合わせによって達成されることを見出す。

互酬は対称的な集団間の相対する点の間の移動を指す。対称的に配置された集団構成が背後にあることを前提

再配分は、中央に向かい、そしてまたそこから出る占有の移動を表す。何らかの程度の中心性が集団の中に存在することに依存する。

交換は、市場システムのもとでの「手」の間に発生する可逆的な移動の事をいう。価格決定市場というシステムを必要とする。
実在の経済の一つの統合形態としての互酬性は、再分配と交換の両方を副次的な方法として用いる能力によって、大幅にその力を増す。

互酬性は、再分配の一定の原則によって労働負担の分有が行われることによっても達成される。例えば、「交互に」ものごとを引き受けるような場合である。
同様に、たまたまある主の必需品が不足している相手のために設定レートで行う等価物の交換によって達成される時もある。

出展:経済の文明史 (ちくま学芸文庫) 文庫 – カール ポランニー (著), Karl Polanyi (原著), 玉野井 芳郎 (翻訳) 筑摩書房 (2003/6/1)
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少し前、最も幸せな国はどこ?といった流行りが端を発し、日本でも内閣府において2011年に幸福度指標というものが試案されています。
そこで、持続可能なしあわせ(主観的幸福感)とは
・経済社会状況
・心身の健康
・関係性(つながり)
の3つが基軸になるとあります。

また、人種や文化によってもしあわせの考え方が違うのは当たり前で、例えば、アメリカと日本では、幸福像が全くちがいます。

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日本「バランス志向的幸福像」
ポジ・ネガティブの感情のバランス:良いこともあれば悪いことも隣り合わせになる。
関係性のバランス:自分だけが飛び抜けて幸福であったり,あるいは不幸であったりすることは好まれない。「人並み感覚」が大切

アメリカ「増大的幸福像」
幸福は自分の能力や環境要因などを可能な限り最大化した状態で得られるもの
若く健康で、高い教育を受け、収入が高く、人付き合いがうまく、良い仕事をもち、自尊心の高い人
「生まれてから死ぬまでずっと幸福を増大させ続ける」

出展:特集 幸福感次のステージ「日本人の幸福感と幸福度指標」内田由紀子
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幸福像が全く違う国の経済的文化を取り入れることで、その国はしあわせになるのか。。

これらを踏まえ、しあわせのイノベーションの基本となる3つの破壊を考えています。

1)お金の破壊(経済社会状況)
お金でお金を増やすのは、何かおかしい。本来、お金に価値はないはず。
ただし、自分に無い価値を他人と交換することは必要。
定性的価値をどのように表し、交換できるようにするのか。互酬、再配分とのバランス。

2)時間価値の破壊(心身の健康)
人は労働をお金に交換した。
その労働価値は、労働時間と比例すると考えることが自然になってしまった。多くの時間を働いた方がたくさんお金がもらえる。この考え方は根強い。
人生半分仕事でしあわせか。人生暇なのがしあわせか。

3)産業構造の破壊(関係性)
産業分業の破壊
 農業革命:第一次産業
 産業革命:第二次産業
 情報革命:第三次産業
近代からの革命により、効率化による分業が進み、物質的価値が増大する。

個人分業の破壊
各産業内に無数のカイシャを作り、カイシャ内で個人分業がなされる。そして、カイシャ内で情報交換がなされる。この無駄。
ただ、特に日本では、カイシャが人のつながりの多くを担っている。関係性や心身の健康の一端を担っている。

そして、これら3つの破壊が実現可能な考え方の一つとして、
アリストテレスが言う善意(フィリア)の絆によって結ばれた自給自足する共同体であり、
かつ、カール・ポランニーが言う互酬と再配分と交換の組み合わせによる実在経済を実現している共同体
であると考えられます。

参考図書:経済成長主義への訣別 (新潮選書) 2017/5/26 佐伯 啓思 (著) 新潮社 P381


イノベーションリーダーの具体像を考える

1)イノベーションリーダーの機能を阻害する要因とは?
<変化を嫌う人>
イノベーションによって、大なり小なり「変化」があります。人は本能的に変化を受け入れられません。変化に対してストレスがあります。人は本能的に安定を求めます。自らストレスの多い変化に向かっていきません。
このストレスへの耐性は、危機感をいかに感じているかによります。具体的には、危機に対するスケール感に左右されます。
スケール感
規模:自分/家族/地球人、会社法人/事業部/本部/部/課/係
時間:明日/1年後/10年後/定年まで/100年後
動機:どうあるべきか、好きか/嫌いか、課題なのか、問題なのか、自己満足か、単なる思いつきか
人にはさまざまな危機感が存在します。少なからず危機感すら無い人もいます。
<変化を嫌う組織>
横のつながり、技術分野横断、サプライチェーンにおけるすべての関係部門のつながりなどが無い、自己完結組織では、イノベーションを起こすことは難しいです。種を育てる組織と人がいないからです。
ある製品やサービスに限定した組織の集まりでは、それ以外の突飛な事(イノベーション)の発生すらしないでしょう。

2)阻害する要因を克服するにはどうすれば良いか?
<危機感の醸成>
その会社で働く人すべてが何等かの危機感を持つ必要があります。そして、その危機のスケール感の認識を合わせていきます。
<なんでもできる組織>
組織の壁を超える。何をしても良いかもしれない。それが出来る環境がある。と皆が考えられる組織編制が必要です。トップはそれを宣言する必要があります。トップの号令が無ければ、このような組織はできません。
<強力なサポータとサポート>
イノベーションの種を持つ人を見つけ、鼓舞し、強力にサポートする仕組みが必要です。
<行動変容>
最初は少しだけ変えます。変化に対する耐性を養い、危機のスケール感の認識を合わせていくためです。その後、変化を徐々に大きくしていきます。


どのようなリーダーが存在し、機能すればイノベーションの成功確率が高まると思われるか

結論、実行できるリーダー、胆識があるリーダーが存在する必要があると言える。

企業人のほとんどは、言っていることとやっていることが違う。言いっぱなしが多い。実行しない。
「実行しなくても将来は保証されている。」
「実行しなくても自分に危害はない。」
「実行しなくても世の中回っていく。」
「実行しなくても将来安泰で幸せだ。」

PDCAは流行り。
P(プラン)はする。何か形を報告せねばならないから。
D(Do,実行)は絶対しない。
「プランで満足してしまう。」
「自己完結してしまう。」
「実行して失敗するのが怖い(自分の立場が脅かされる)。」

このような、様々な心理バイアスが実行者に襲い掛かるからである。

実行とは、3現主義(現場、現物、現実)によって、現実に働きかける体系的な方法である。それはすなわち胆識であり、知識、見識の元で成り立つ。

自社にどの程度の実行力があるかを推し量り、実行できる人材と結びつけ、様々な立場の人が協調して情熱を燃やすようにし、ビジョンを明確にし、何をすべきかを考えさせる(それをやりたいのか。)。
そして、広い視野を持って、外部環境を見つめ、思い込みをせず、独立した他者の意見を傾聴し、議論し、よい質問をし、絶えずメンタルをフォローし、明確な権限を与え、責任を求める。

実行は、3現主義からの精度の高い仮説と情熱によって成り立つ。決して仮説の無い想像だけで実行してはならない。失敗するだけだ。そして、精度の高い仮説を立てるには、知識、見識とセンスが要る。

企業がイノベーションを起こすには、中から変わらねばならない。企業人の一人ひとりが、様々な心理バイアスから脱却できないといけない。安心してはいけない。情熱を燃やさねばならない。

変わる方法はトップダウンが理想である。

それが不可能であれば、アジャイル的手法を使う。小さく始めて早く成功させ、数をこなす。これを伝染させていく。

ただし、その成功を実行しない保守者に取られてはならない。大概、企業イノベーターは保守者に横取りされ、挫折する。保守者に取られない根回しとしたたかさも必要である。


デザイン思考の罠

デザイン思考を使って新しいビジネスモデルを考えるセミナーなどが増えています。
私も何度か参加させてもらい、全く知らない様々な業種の方とコミュニケーションを取りながら、何らかの道筋を探っていくプロセスはいつも有意義です。

デザイン思考のとっかかりは「発散」と「収束」です。
「発散」とは、ブレインストーミングなどを用いて思うことを出し合い、その中から考え方の軸やグループを見つけ、そこに意識を集中してさらに発想を発散させます。
「仮設を立てる」こととは異なります。「演繹」(一定の前提から論理によって必然的な結論を導き出す)でもありません。

ふつうはこれをごっちゃにします。

また悪いことに、その思考過程でいろいろなフレームワークをハメられると、発散する範囲が狭められることを経験しました。

5W1H:いつ(When)、どこで(Where)、だれが(Who)、なにを(What)、なぜ(Why)、どのように(How)
4P:製品(Product)、価格(Price)、流通(Place)、コミュニケーション(Promotion)
3C:顧客(Customer)、競合(Competitor)、自社(Company)
SWOT:強み(Strength)、弱み(Weakness)、機会(Opportunity)、脅威(Threat)
ファイブフォース:既存の競合、新規参入の脅威、代替品の脅威、売り手交渉力、買い手交渉力

今までの経験、知識、想い(やりたいか)をいろいろ組み合わせて、目の前の困りごと(テーマ)に向けて、頭の中のもやもやを一生懸命言葉や文字列にしようと考えています。
そこに、そのもやもやが「だれ向けですか?」と言われた瞬間、現実世界に目を向けてしまい、「不満にはならない程度の月並みな業績※」に陥っていきます。
言い換えれば、「主観」が「客観」になると言えますね。「日本人は「主客一体」を基本とした精神」なので、こういった考え方は苦手なのかもしれません。

フレームワークはあくまで「収束」させるためのツールであり、「発散」時に使用すると、出来上がったものが非常につまらないものになります。

※スマントラ ゴシャール クリストファー・A. バートレット(1999)『個を活かす企業―自己変革を続ける組織の条件』ダイヤモンド社 315Pより引用


エルダリーヘルスメディケーター

超高齢化社会に立ち向かうために

我が国の「平均寿命」は世界一で、平均寿命と健康寿命の差(日常生活に制限のない期間)は、男性 約9年、女性 約13年です(平成22年)。今後、平均寿命の延伸に伴い健康寿命との差が拡大し、医療費や介護給付費の多くを消費する期間が増大することが予測されています。
一方、死因別死亡割合の経年変化は、がんや循環器病などの「生活習慣病」が増加し、さらに、「寝たきり」や「痴呆」のように、高齢化に伴う障害も増加しています。これらの疾患は、身体の機能や生活の質を低下させ、健康寿命が短くなります。今後は、治療だけでなく、予防によって、個人が継続的に生活習慣を改善して日常生活の質を維持し、積極的に健康増進していくことが重要な課題です。
※参考:健康日本21 第1章 我が国の健康水準 第1節 超高齢少子社会日本の健康課題

そこで、厚生労働省が「地域包括ケアシステム」なる政策を提唱しています。
『団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築を実現していきます。』
『地域包括ケアシステムは、保険者である市町村や都道府県が、地域の自主性や主体性に基づき、地域の特性に応じて作り上げていくことが必要です。』

医療・介護については、情報の統合や遠隔医療、在宅医療による介護従事者の負担増など問題はありますが、問題が明確であるため、それなりの問題解決が図られることが期待できます。
予防については、どうでしょうか。問題が明確でしょうか?

薬局の役割

国は、予防の役目を薬局に託しました。院内処方に比べ3倍ほどの費用を出して、病院と別で店舗を構えることで、高齢者がやってきてコミュニケーションし、予防や生活支援がなされ、健康寿命が延伸されることを期待したはずです。
薬局はその期待に応えられたでしょうか。医薬分業を推進した結果、病院前に乱立する薬局。。。薬局は薬を売ってなんぼです。薬が売れなくなる予防を積極的に薬局がするでしょうか。。?

高齢者の健康志向と問題点

高齢者の45.8%が日常的に健康食品を利用※しており、健康食品、健康器具、健康な体操など健康増進に積極的です。インターネットを使用する高齢者も増加傾向(5割以上※)にあり、情報も手軽に入手できるようになりました。しかし、それらが本当に健康増進に役立っているのかを定量的に自覚できないうえに、信頼性が低い情報も反乱しており、多くの情報から有用な情報を選択することは困難で、健康被害、購入にかかわるトラブルが後を絶ちません。
一般に有効性に関する情報は、販売元の宣伝や口コミが多く、安全性に関する情報は、行政機関や保健医療関連の専門医、ドラッグストアの薬剤師などで、有効性と安全性の情報経路が別でありかつ分断されていることが問題です。
高齢者は健康でありたいと考える一方、健康増進法の情報や実践方法、そしてフィードバックが適正に行われていません。一番大きな問題は、自分の健康状態が即時にわからないことです。自分の健康状態を定量的に知るためには、血液検査や特殊な機器を用いる手法がいまだに多く、どうしても数値が知りたい高齢者は病院やクリニックに行かざるを得ないのが現状です。費用負担、交通手段の不足、診察時間がかかるなど様々な問題があり、気軽に行けるところではありません。
※食衛誌Vol.58,No.2 高齢者における健康食品の情報源に関する調査

情報化社会と高齢者をつなぐ

健康増進には、三大要素である「栄養」「運動」「休養」と併せて、「ストレス」などを含めて、現在の自分がどの程度健康なのかをリアルタイムにかつ簡単に知ることが必要です。そして、高齢者が、自分の健康状態から、健康の維持方法を見つけ、それを積極的に実行することが必要です。
現在ある情報技術を用いれば、自分の健康状態を即座に知ることは難しくありません。そして、健康を維持するためのたくさんの健康食品や健康増進方法、健康器具その他多くの健康コンテンツが提供されています。しかし、高齢者がこれら情報やコンテンツを正しく選別し、適正に使いこなすことができるのか。加齢に伴って、自ら良いものを選択することがますます困難になっていきます。

ICT/IoT活用でセルフケアの属人性の回避に解を見つける

現在、介護、薬局、病院における高齢者へのセルフケアは、肉体労働でかつ属人的な事業形態です。いずれ人口の1/3が高齢者になる日本で、属人的なセルフケアは人材不足で破綻します。
セルフケアにおける肉体労働の省人化/省力化は、もう少し技術革新が必要ですが、まだまだ動ける予防可能な高齢者に対して、情報提供の観点からICT/IoTを活用し、属人的な情報提供や指導を回避して積極的に予防してもらうことは可能ではないかと考えています。
高齢者への情報提供は、インターネットだけでは足りません。仮想と現実、すなわちインターネットとコミュニティを活用し、高齢者がコミュニティ(現場)に集まり、正しい情報伝達と選択がなされ、積極的な予防を行う状態が必要です。
いかに、高齢者に正しい情報を提供し、適正に使いこなしてもらうか。結局のところ、活発に情報を得る方法は、現場すなわち井戸端(コミュニティ)でコミュニケーションすることが最適なのではないかと考えています。ただし、口コミで正しい情報が伝わるとはかぎらない。そこで、インターネットをはじめとしたICT/IoTの技術(仮想)と現場(現実)を上手くつなぐコミュニティの育成が必要です。

予防を生業とする職業「エルダリーヘルスメディケーター」

このようなコミュニティ事業の運営は、ICT/IoTの仕組みを包括的に利用し、そのソリューションを高齢者のセルフケアに集中投入できる専門の事業者が、市町村や都道府県を引っ張っていくことによって、確実な育成と拡散が実現できると仮説を立てています。

つまり、予防を生業とする職業が必要だ。と思います。「エルダリーヘルスメディケーター」(私が作った造語)です。

健康寿命を延ばすためには、医療と介護ではだめです。予防によって、自主的に健康(セルフケア)になるしくみを大規模に包括的に確立することが、急務であると考えています。
そこで、高齢者に正しい健康情報を伝えるための無料のコミュニティを育成し、コミュニティに来たくなる。来るために動く(必然的運動)。来て新たな情報を得る。このコミュニティで情報取得、状態把握、実行のサイクルを確立する実行の場(きっかけ)を提供していくことで、超高齢化社会の一つの解が得られるのではないかと考えています。

さてどうするの?

「エルダリーヘルスメディケーター」のプランをピッチコンテストで応募しましたが、不採用になってしまいました。以下が実現イメージになります。


知識の創造

「知識とイノベーション」でイノベーションを起こすには、知識の創造が求められると述べました。

知識とはどの様に創造されるのでしょうか。

知識創造は2つのサイクルの相互作用により創造されると考えられます。
1つは「今」「現実」で創造する<見えるサイクル>
もうひとつは「信念」「真実」で創造する<見えないサイクル>です。

knowledge
<見えるサイクル>
「今」「現実」で創造する知識
・共同化
相互作用の「場」、共感知
・表出化
有意義な「対話すなわち共同思考」、概念知
・連結化
知識を結合する、体系知
・内面化
行動による学習、操作知

<見えないサイクル>
個人の「信念」を、人間によって「真実」へと正当化し創造する知識
・知識の移転(現象経験)
境界を越えて受け取り、自由に応用する自律性
・仮説の発見
個人の持つ暗黙知、様々な「情報」と深い考察による
・コンセプトの創造(概念化)
比喩的言語を多用する
・コンセプトの正当化
信念を正当化(認めてもらう)知識は正当化された真なる信念
・原型の構築(モデル)
因果関係を明確化、構造化する
個人間、部門間の協力を促す道具とする
・科学による真実の探求
原型構築の結果から真実を究める

これが、知識の創造する過程と考えられます。

それでは、知識の創造における日本人の強みとは何でしょうか。

日本人には神がいません(無です)。これは、大きな特性であり諸外国には無い強みです。

簡単に言い換えますと、「主客一体」を基本とした精神と言えます。

主客一体
西洋思想は主体と客体が別です。
つまり、主体は、動作・作用を他に及ぼす存在としての人間であり、行為・実践をなす当のもの。 客体は、行為・実践の対象となるもの。
では、人間が及ぼしたとは考えられない事柄、運命とか天災の主体は?これは神ということです。神は全知全能であると考えます。

日本人の思考は、人間含めたすべての一体化が重要な特徴です。
日本人は「もの」に対して、形なきものの形を見、声なきものの声を聞く精神があります。
「これぞそのものだ」「ほんものだ」「そういうものだ」「ものの気」「ものの気配」

日本語の「もの」という言葉は、物体や物理的存在だけを表すだけでなく、多様でかつ、独特の深みを持っています。
例えば、さくらが咲いて散る。さくらが咲いて、物的な存在としている背後に、いずれ散り、消えてなくなる「消滅」という宿命が暗示されるがゆえに、そこに「もの」の独自の美を見いだし、そして、いとおしく思います。

そして、「時」とも一体化します。
西洋は過去、現在、未来を意識します。言葉の時制がはっきりしています。日本語ははっきりとした時制がなく、時間軸が固定していません。
伝統の精神。「今」を生きる私には先ほどすでに過去となった「時」が記憶として、経験として残っている。そして、将来が目の前にくる。

心身一如
日本人の知識とは、全人格の一部として獲得された知恵。間接的・抽象的知識よりも、個人的・身体的な経験を重視します。伝統や職人気質などですね。
近代の以前で長い歴史のある「武士道」。その教育で最も重視されたのは人格をはぐくむこと。思慮、知性、弁論などは重視されなかったそうで、「行動の人」であることが重要視されました。
この様な行動・実践による身体的経験を、西田幾多郎は、「純粋経験」と言いました。

『なんと美しい花だ。花を見た一瞬、アッと息をのんだ時、私は確かにある経験をしています。しかし、この時には、「私はいま桜を見ている」ということさえもできません。「きれいな花だな」と考えたりもしません。そんな認識はないのです。そこには「私」もなければ、「桜」もありません。いわば両者が融合したような経験だけがあるのです。』

ものを考えている脳が、考えている「私」について考える事ができない。「経験」を得ているときは、主体も客体も無いわけです(主客一体)。

自他統一
日本人は人間集合を有機的生命体とみなし、他人との関係において自己を表現します。現実を典型的には、自然や他者との物理的な相互作用の中にみます。

冗長性
日本の組織のもっとも著しい特徴は、情報冗長性を重視しているところです。
情報冗長性とは、情報を意図的に重複共有させることをいいます。互いの知識領域に「侵入することによる学習」をもたらします。
たとえば、階層組織外にある非公式コミュニケーションの構築を助けます。
そして、個人は組織における自分の位置を知り、個人が組織全体の方向に合うように自己を制御することを助けます。

主客一体の概念知として私が印象的なのは、「人馬一体」です。日本人の精神と見事に一致したコンセプトだと思います。
そこにいけば、「純粋経験」が出来るのではないでしょうか。

<参考書籍>
・野中郁次郎 竹内弘高 梅本勝博 (翻訳)(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社 401P
・野中郁次郎 紺野登(2003)『知識創造の方法論―ナレッジワーカーの作法』 東洋経済新報社 292P
・佐伯啓思(2014)『西田幾多郎 無私の思想と日本人』新潮新書 256P


知識とイノベーション

イノベーションは技術革新ではありません。

平成17年の中央教育審議会答申(「我が国の高等教育の将来像」)が指摘するとおり、21世紀は、『「知識基盤社会(knowledge-based society)」の時代である。』と言われています。
また、20年ほど前のドラッガー「ポスト資本主義社会」では、
『「基礎的な経済資源」は、もはや資本でも天然資源でも労働力でもなく「知識」であり、「知識労働者」が中心的役割を果たす。』
と言われています。

このように、「知識」が注目される理由とは何なのでしょうか。

資本主義の下、人間の基本的欲求は、「資本」「労働」「技術」「資源」によって満たされてきました。
この人間の基本的欲求をマズローの欲求5段階説で現わすと、以下の通り、低次からより高次に欲求を並べる階層となり、低次の欲求が充たされると、より高次の階層の欲求を求めるとされます。
<低次>
↓1.生理的欲求
↓2.安全の欲求
↓3.所属と愛の欲求
↓4.承認の欲求
↓5.自己実現の欲求
<高次>
この半世紀で、平和が続く地域では、人々全体で欲求がより高次に移り変わっています。そして、自己実現の欲求を求める人が増加しているはずです。
マズローの言葉を借りると『自己実現とは才能、能力、可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を充分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる』
このような自己実現を行うには、「知識」が必要なのです。これが私の仮説です。

それでは、「知識」とは何なのでしょうか。

・個人の「信念」が、人間によって「真実」へと正当化される直接的過程です。
・個人が「信念」を持つには、様々な「情報」と深い考察による「仮説」が必要です。
・そして、仮説を立証するには実践(使用)が必須です。毛沢東「実践論」でも以下のように言われています。
『知識を欲するなら、現実を変化させる実践を行わねばならない。実践、知識、さらなる実践、さらなる知識、この型の循環的反復を無限に行え。』

ここで1つの疑問が湧きます。「知識」と「技術」は違うのか?

かつて日本は技術立国と呼ばれました。高度経済成長を経て、バブルがはじけ、失われた10年、20年と呼ばれ、今に至ります。日本人にとって技術とはなんでしょうか。そして、かつての造語である「科学技術」とは何なのでしょうか?

「技術」とは?

技術には2種類あります。
1つ目は、いわゆる伝統。人類の誕生とともに、親方・徒弟間の伝承制度で同業者間のみで蓄積された職人的技術。
2つ目は、近代技術。西洋文化が基で、生活者は原則的に自由であり、自分の望むことを実現できる権利を有する。自らの欲するところを無限に追及するという近代社会形成のなかで、技術は強力な手段となり、無限に進歩し拡大するもの。
そして、技術とは、目的が同じでもいろいろなやり方があり、「唯一の正解」が無い。技術は有用を追及する。

「科学」とは?

ものごとの本質を究めようとする知的な営み。原因を追及して「唯一の正解」を求める。つまり、科学は新たな目的が達成された結果から真実を究める。

このように、技術には「目的」があり、科学には「結果」がそこにあるのです。技術は目的ありき。科学は結果ありき。
知識は個人の「信念」によって目的を生み出す。ここが違いです。

目的ありきとはどういうことか。
高度経済成長の中で、日本人は何を作ってきたでしょうか。よく考えると、すでにあるものを安く作る、品質を上げる、小さくするなどではないでしょうか。すなわち目的があったのです。

ですから、「技術革新(≠イノベーション)」ではだめなのです。技術革新は、目的ありきですから。

イノベーションは知識が創造された結果によって起こる。

と考えるべきでしょう。

「目的ありき」という着目点で今までのものづくりを見ると、本当に知識が創造され、イノベーションにつながった事例を抽出できます。そして、そこから学ぶべきです。

近代技術によって、低次の欲求は満たされました。人間の「真実」につながる新たな目的を創造する。すなわち知識の創造が求められています。

<参考書籍>
・野中郁次郎 竹内弘高 梅本勝博 (翻訳)(1996)『知識創造企業』東洋経済新報社 401P
・野中郁次郎 紺野登(2003)『知識創造の方法論―ナレッジワーカーの作法』 東洋経済新報社 292P
・丹羽清(2006)『技術経営論』東京大学出版会 363P


モジュール化

モジュール、モジュール化といった言葉はよく聞きますが、直訳すると「大きなひとくくりにすること」を意味し、かなり広範囲な意味です。
ではその本質とは何でしょうか。

まず、ものづくりにおける過程を考えた場合、モジュール化対象は以下に分類することができます。

製品のモジュール化

パソコンなどが良い例です。マザーボード、CPU、ハードディスク、メモリ、電源、その他オプションを別のメーカから買ってきて、ほしいスペックになる様に組み合わせて組み付ける。特に難しい調整は要りません。電源を入れて、OSをインストールすればとりあえず使えます。
作る側は、ただ単に組み合わせているだけですが、これら部品の連結ルールがオープンで定まっているために実現できるのです。

工程・作業のモジュール化

多種製品や大量製品において、共通する一定の工程や作業が存在します。上のパソコンの例では、電源は共通で全く同じ工程であるとか、CPUはメーカは違えどピンの数は同じで、全て同じ作業であるなどが考えられます。このような共通する工程・作業を集めて1つのくくりとし、作業標準化して集中的に教育し、品質を安定させたり、流れ作業において同じ作業だけを繰り返させてミスを減らすなどを実施します。

生産設備のモジュール化

工程・作業のくくりがかなり大がかりでかつ大量、素早く、正確さが要求される場合、生産設備導入を考えることになります。
昨今の生産設備は電装系いわゆるシーケンサやセンシング技術が非常に発展しているため、製品に物理的作用を施すハードウエア以外の動きの制御や判断は、ソフトウエアが主となってきています。これにより、ハードウエアはより単純化される傾向にあり、設計工夫の結果、ハードウエアがモジュール化され、組み合わせ性が発展し、多品種対応が可能となったり、コストダウンができたりしています。
そうなってくると、ソフトのモジュール化がキーとなります。
一方、ソフト台頭で良いのか?という議論もあります。こちらを参照ください。

モジュールというものは、製品であれ、工程・作業であれ、生産設備であれ、それ単体である機能(価値)を持ちます。そして、その機能をいろいろ組み合わせていくとシステムとなり、顧客が求める機能(価値)に発展していきます。ここでポイントとなるのは、モジュールを連結する部分の決まりです。

  • 自社だけなのか(ブラックボックス化)
  • 業界標準なのか
  • グローバル標準なのか

により、作り手が取る戦術は違ってきます。当然、その市場が魅力的であるほど、新手のモジュール開発は加速し、弱肉強食の市場になります。

また、その連結ルール自体も進化していきます。どこが主導権を握るかで切磋琢磨するのです。

さて、モジュール化は最近の流行り言葉ですが、限界はあるのでしょうか。それは、そのモジュール自体が「物理限界」を超えるかどうかで決まります。
産業革命をはじめとして、人は物理限界を超えてきました。
モジュールで各機能が加速的に発展するといずれ物理限界に到達します。物理限界に到達すると、その機能をさらに上げるためには、摺り合わせによる機能達成が必要となってきます。そしていずれ誰かがその限界を超える。物理限界を超えたらまた、モジュール化が加速していく。そんな繰り返しではないでしょうか。

ムーアの法則に基づき進化した半導体は、今まさに量子力学に基づく物理限界、言いかえればモジュール化の限界を摺り合わせにより超えようとしています。超えた先にどんな世界が待っているのでしょうか。楽しみですね。

<参考書籍>
青木昌彦 安藤晴彦(2002)『モジュール化 新しい産業アーキテクチャの本質 経済産業研究所・経済政策レビュー 4』 東洋経済新報社 334P


アイディアを守る

設備投資は問題解決です。
問題解決の過程でアイディアが発生する場合もあります。

さまざまな設備メーカさんと接することが多くあります。そんな中で感じるのは、世の中の多くの生産設備は中小企業さんが担っており、その中小企業さんは各々がコア技術を持っていて、継承と進化を続けていることです。コア技術の根源をひも解いていくと、実はある中小企業さんが発祥だった。などという話があります。
なぜ、中小企業さんが多いか。小回りが利く。なんでも作ってみる、チャレンジする。価格が安い。そもそも面白い。などの理由なのでしょうね。

さて、日本の現状として、こうした中小企業さんがコア技術を持ち、設備産業を支えているのですが、彼らのアイディアというのは、マネされ放題です。
ある中小企業さんがちょっとしたアイディアを生産設備に搭載すると、それを見た別のメーカが巧みにそれをマネして、いつの間にかそのコア技術が実施できるメーカが増えるという感じです。こうして、いつの間にやらアイディアを皆で分け合っているのです。

特許を取ればいいじゃないか?

実際は、特許が取得できる技術であっても、実際に特許化して維持できないのです。また、特許侵害を発見してもそれを訴える体力もない。訴訟はお金と手間とテクニックが要ります。いちいち訴えていては会社が持ちません。
そんな背景があり、だれも自分たちのコア技術を守れない状態です。

これから先、いわゆる日本国内のマネで皆が切磋琢磨する状態ならよいのですが、世界で日本のアイディアがマネされる事態も起こっています。
どう頑張ってもこれから先、世界と競争していかざるを得ません。いろんなところで言われるように、やはり知的財産戦略を意識した設備投資というのも考えていかねばなりません。

「生産設備への投資とは」でも申し上げているように、ただ良いハードを買えばよいのではありません。その良いハードを導入する過程で必ず問題解決は存在し、その問題解決の中にアイディアが含まれます。それがコア技術であり、大切な知的財産権です。
その知的財産権をしっかり守る。もしくは、そのコア技術が誰にもマネできない。元祖の方が安くて品質が高ければ、だれもマネをしません。
いわゆる知的財産権のオープン、クローズ、基幹技術戦略をしっかり押さえるということです。

私個人的にはこれら戦略を考えて実行できるのは、中小企業さんではなく、大手機械商社さんであると考えています。豊富な資金を元に、自分たちの範疇を超えて、日本全体、そして世界に向けて、中小企業さんの知的財産権を包括的に守り、中小企業さんが安心してアイディアを発生させ、日本全体で切磋琢磨できるような状態を構築していただけたらと思います。

切磋琢磨した日本固有のアイディアを熟成させれば莫大な国益を与えます。しかし、日本は、それを登録して維持するのに膨大なお金を取ります。。。なんでもかんでも特許化では確かにそうなるでしょう。国益となりえる日本固有のアイディアをどのように発掘して守るのか。今後の日本にそれが求められていると思います。